ご近所の狛犬さん その71
2015年1月23日分、鎌倉市編の第2弾その9となります。
御霊神社、三嶋神社、熊野神社 、龍口明神社、諏訪仮宮、小動神社、熊野新宮 、虚空蔵堂をお参り後、極楽寺坂をほんの少し坂ノ下方面へ。
こちらも毎年何度か通っていまして、鳥居には一応ご挨拶は済ませていますが。
・御霊(ごりょう)神社 (鎌倉市坂ノ下4-9)
・祭 神
鎌倉権五郎景政霊(かまくらげんごろうかげまさ)
鎌倉権五郎・鎌倉景政・平景政などとも呼ばれているとか。
・由 緒
平安時代後期の創建。祭神景政公は、桓武天皇の(五十代)末裔、平氏一門で鎮守府将軍平良文が祖父。父は鎌倉権守景成。
「奥州後三年記」によれば、景政公は十六歳にして源義家に従い、奥州後三年役に金沢の柵(秋田県)を攻めた折、鳥海三郎という者に右の眼に矢を射込まれ、然し彼はひるまずその矢を抜かずして答の矢を放って相手を倒してしまった。そして味方の陣に帰り兜をぬいで「景政手負いたり」と大声してたおれた。そこで味方のこれも亦剛の者、三浦の平太為次という武士が景政の眼に刺さった矢を抜こうと「つらぬき」(毛皮で造った靴)をはいたまま、景政の面部に足をかけた。すると景政は「弓矢に当たって死するは武士の本望だ。なのに土足をもって面部を踏むとは何事ぞ」と刀をかまえてその無礼を叱咤した。
為次驚いてその無礼を謝し膝を以て押さえその矢を抜いた。人々此を見聞し景政の功名いよいよ高しと。
景政の勇名は鎌倉武士の誇りとなり、御霊神社の祭神として崇められるようになった。
「吾妻鏡」の中に、文治元年(平家滅亡の年)八月二十七日、御霊社の社殿が鳴動して地震の如くすさまじく、幕府から使者が参向し御願書を奉納して賜物を下し神楽を奏したと書かれており、又その他にも五霊社の記事が多々あるのをみても御霊社はさまざまな奇端の現われる神社として幕府の崇敬の度が厚く、諸行事がこのお宮を中心に行なわれたことがうかがわれる。
江戸時代には眼病平癒、除災招福の神社とされ、現代にあっても景政公の旺盛な精神力は初志の貫徹を祈る人々への厳しい励ましとなっている。 神社庁資料より
こちらの参道は、江ノ電の線路が横断しています。
その昔には、思いもよらない事なのでしょう。
参拝中に電車が来ましたので、拝殿側からパチリ。
鉄道マニアではないので、構図は別物です。
取りあえず、参道の狛犬さんはこれ位で。
(写真集には、たくさん載せます。)
かなり広い境内には、たくさんの境内社や庚申塚が。
拝殿に向かって右手奥からご案内。
石上神社の御神体は御霊の前浜沖二kmに沈んでいた巨大な石。
漁船が度々座礁することから江戸時代末期、この大石の上部を切り上げて境内に海上安全の神としてお祀りしました。七月の第三月曜日(海の日)に行われる石上神社の例祭は、一名御供流と呼ばれ大石のあった沖合まで若者達が供物を手に高々と捧げて泳ぎ供える神事です。 社頭掲示板より
お社の前に年令不明の狛犬さんが。
広い境内ですが、なかなか参拝者が途切れません。
そんな中、祭神である景正が手玉にとって、袂に入れたいう袂石や手玉石を眺めながら参道を戻りました。
(袂石は16貫/約60kg、玉石は28貫/約105kg)
古来より石は神霊を宿すといわれていますよね。
源義家と共に後三年の役を戦った鎌倉権五郎景正を祀っていると伝わるタブノキの巨木などを楽しんで、お参りを済ませました。
参拝者が切れますと、江ノ電のゴトゴト音が心地良く聞こえる、かなり広めの境内でした。
空を見上げますと、何とも良い感じの雲が見えて来ましたので、先へと進みました。
ご近所の狛犬さんシリーズは、まだまだ続きます。
狛犬の写真は、カル2の狛犬さん写真集の中に沢山掲載しています。
どうぞ、ご覧になって下さい。
・ご近所の狛犬さん その70は、こちらです。
・ご近所の狛犬さん その72は、こちら です。
最後までお付き合い、有難うございました。
では、また。
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