
横浜市戸塚区編、怒涛の第2弾のその3です。
第2弾・その1はこちら 、その2はこちらです。
戸塚町の下郷熊野神社から狛犬さん不在社を巡りつつ、直線距離1㌔ほど北東方向へと移動でした。
旧東海道の戸塚町交差点前のこちらへ。
・富塚八幡宮 (横浜市戸塚区戸塚町3827)
・祭 神
誉田別命 (ほむだわけのみこと)
(応神天皇)
富属彦命 (とみやすひこのみこと)
(古墳時代の戸塚の豪族)
・由 緒
平安時代の前九年役平定のための源頼義、義家父子が奥州下向の途次、当地に露営し、夢に応神天皇及び富属彦命の信託を蒙り、その加護によって戦功を収めたので、延久四年(1072)富塚山中腹に社殿を営み両祭神を勧請したものである。
後に鎌倉権五郎景政の臣・戸塚修六友晴は、当社の霊験の灼(※)なるを畏み、応徳三年に社殿を再建した。現在の本殿は天保十一年、拝殿は昭和九年の改築になる。
富属彦命は相模国造弟武彦の二世の孫で、境内山頂の古墳がその墓と伝え、これを富塚(トミツカ)と称し、やがて「トツカ」となったのが「戸塚」の地名の起りと伝える。
明治六年十二月、戸塚区内唯一の郷社に列せられている。 神社庁資料より
旧東海道に面しており、かなり排気ガスの影響がある様な?


こちらも国道1号線としての道路拡張により、かなり境内が狭くなってしまったと思われます。
鳥居を潜り石段へ。


石段を登りきると拝殿ですが、何やらお待ちかね?
先ずは、お参りから。


続いて、お待ち頂いた本命のこちらを。
台座には、天保十二年(1841)秋八月の彫りが。













境内を探索。
本殿の脇障子に、こんな彫り物が。



社殿の脇には、天満宮や稲荷大明神、御嶽大権現や



数多くの庚申塔が祀られていました。







建立時期は不明ですが、少し古そうな石灯籠も。

そして、彼の有名な松尾芭蕉の句碑も在りました。
(はつかつお)
鎌倉を生きて出でけむ初松魚
元禄五年(1692)芭蕉49歳の作句。
江戸っ子に珍重された初鰹は、当時鎌倉に水揚げされて戸塚を通り、江戸へ運ばれた。
その情景をうたった松尾芭蕉の句碑が、嘉永二年(1849)戸塚の俳人たちによって建てられた。との事です。

お参りを済ませて、更に北東方200mほど移動し、
八坂神社前交差点へ。
・八坂神社 (横浜市戸塚区戸塚町4189)
・祭 神
素戔嗚尊 (すさのおのみこと)
奇稲田姫命 (くしいなだひめのみこと)
・由 緒
元亀3年(1572年)6月、郷の庄司内田兵庫政親が牛頭天王社を草創勧請したものである。
その後、いつしか社殿敗壊、御神体は草莽の中に散在し、止む無くこれを地中深く埋め祭祀を欠くこと数十年に及んだ。内田氏の子孫、内田佐衛門蔚源政利がこれを憂い、元禄元年、矢部村庄司河原氏の霊夢により土壌を起こし、御神体を得て、その再興をはかり祭祀を行った。この時、鶴ヶ岡の神職が湯花神楽を奏した。
正徳6年4月14日正一位の神号を受け、政利の子孫は累代社司に任じられた。
明治初年、八坂社と改め、更に昭和7年9月19日、八坂神社と改称した。 神社庁資料より
通称「お天王さま」として親しまれている戸塚宿の鎮守様で、こちらも旧東海道沿いに在ります。

鳥居を潜り、少し石段を登って拝殿へ。


こちらでも、先ずはお参りから。



昭和十三年(1938)七月生まれの狛犬さん。











社殿左手には、稲荷社が祀られていました。


少し狭目の境内には、詠大御祭歌碑、御神体再現記念碑、安政二年(1855)建立の庚申塔や明治天皇東幸史蹟碑も在りました。



こちらのも建立年代は不明ですが、古めの石灯籠が。


境内の片隅には由緒書きと共に、横浜市指定無形民俗文化財「お札まき」の解説が掲出されていました。

おまけ
一等基準水準点標石も埋設されていました。

これにて、怒涛の第二弾のその3は、おしまい。
狛犬の写真は、カル2の狛犬さん写真集の中に沢山掲載しています。
どうぞ、ご覧になって下さい。
・ご近所の狛犬さん その47は、こちらです。
・ご近所の狛犬さん その49は、こちら です。
最後までお付き合い、有難うございました。
では、また。
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