ちょい遠目の狛犬さん その20の続きです。
って、当たり前田のクラッカ-!
↑ ご存知の方はチト・・・。
昨年の7月21日、中井蓮池の里から神社を巡りつつ、小田原の『石垣山・一夜城』へ移動。
その後に、早川まで行ってみました。
もう1年も過ぎてしまいまして、狛犬さんが”早く紹介を!”と騒いでおり、大急ぎで記事を作成です。
先ずは、石橋山古戦場のご紹介です。
平安時代の末期、地方には私有地である荘園が増え、律令制度は徐々に崩壊していきました。荘園を開発した地方の豪族すなわち武士たちは、東国の武蔵・相模に多く、小田原地方では曽我氏、大友氏、小早川氏、中村氏、河村氏、松田氏などの一族がいました。
西国の武士を従えた桓武平氏は、保元の乱(1156)、平治の乱(1159)における貴族の内部争いを利用して勢力を広げ政権を握り、これに対し東国武士に信望のあった清和源氏は、治承4年(1180)高倉宮以仁王の平氏追討の令旨を掲げて、源頼朝が伊豆で挙兵しました。
伊豆・相模の武将の援軍を得て300余騎を従えた頼朝は、鎌倉に向かう途中の石橋山で前方を平氏方大庭景親の軍勢3,000余騎に、後方を伊東祐親の300騎に挟まれ大苦戦となりました。これが「石橋山の合戦」です。
頼朝方の先陣・佐奈田与一義忠が敵将の俣野五郎景久と対戦したのを発端として戦闘に入りましたが、10倍を超える敵の軍勢に頼朝方は敗れ、箱根山中に逃れた後、真鶴から海路安房(千葉県)へ向かったのでありました。 小田原市HPより
と前置きを致しまして。
海岸線の135号線を石橋から旧道に入り 「ふくや旅館」の前を右折、細い急な坂道を登り東海道本線の佐奈田トンネル・根府川口の上を通り、みかん畑の細道を進みました。

当ブログの写真は全て拡大できますが、これは特に大きくなります。
右折の角には、こんな地図や佐奈田霊社の案内板もありました。

これも特に大きくなります。
先ずは、文三堂へ行ってみました。
みかん畑の細い道を進むと、文三堂下に少し広めの駐車スペースが。
・文三堂
後ほどご紹介します佐奈田与一の郎党で、与一とともに石橋山で戦死した陶山文三を祀るお堂です。
石段の脇には、正面に文三○墓・横に天保三年(1832)十月の彫りのある石塔がありました。○は判読不明でした。
お堂の中には、墓碑(でしょうか?)や肖像画などが。
お堂の片隅には年代不明の石仏も祀られていました。
徒歩で農道を佐奈田霊神へ向かいました。
摘果されたのでしょうか?小さなみかんが沢山落ちている細道を少し行くと、左手の路肩に大きな岩がありました。
矢ノ根石と言うそうで、表面に2つの穴がありました。
言い伝えでは、佐奈田与一が射抜いた穴だとか。
で、左上には七ツ割四つ目と思しき家紋の様な彫りが。
石垣には、家紋が掘り込んであるケースが多いですから、若しかしたらどこぞのお城の石垣用に切り出した際に、家紋を掘り込んだのかも知れませんね。しかし、かなり彫りが甘い様ですが風化したのでしょうか。
もしも、それが家紋なら菖蒲佐々木氏かも知れません。単なる四つ目ならば、尼子氏かも知れません。
どちらにしても源氏とのつながりがありますが、年代的に???です。
ず~~~と、後世に彫ったのなら余計に???です。
まあ、このような事例は沢山ありますよね。
タイムスリップが自由に出来たら、その時代に行って見たいですね。
エメリット・ブラウン博士役のクリストファー・ロイドにお願いをしましょうか。それとも病が順調に回復された、マイケル・J・フォックスに国際電話でもしてみますか。答えはきっと”ドクに頼んでよ”でしょうね。
余計な話は一旦置いといて。
更に少し進みますと、道の右手にねじり畑の標柱が。
佐奈田与一が敵の副大将・俣野五郎景久と組打をした所と言われています。源平相方の想いと激しい戦の為、以後この畑の作物は全てねじれてしまうとも伝えられています。
この時の話は、後ほどに続きます。
ねじり畑の向かいに、佐奈田霊社への参道がありました。
かなり古い急な石段・念仏坂を登ると、石畳の参道と かなり広い境内に着きました。
・佐奈田霊社 (小田原市石橋)
冒頭の石橋山古戦場のところでも一部ご紹介しましたが、石橋山の戦いで、頼朝の家来だった佐奈田与一は、平家方の俣野景五郎と一騎打ちをしましたが、刀に血がついていたために刀が抜けず、背後から首を切られ殺されてしまいました。後に討ち死の地に与一塚が建てられ、与一を御祭神とする佐奈田霊社が祀られました。1190年には源頼朝が与一の墓参りに石橋山を訪れています。
与一・俣野の組討の際、与一の声が出ずに味方が駆け付けられなかったとの説もあり、佐奈田与一の霊魂が残って「のど(声)・せき・気管支炎・ぜんそく」に悩む人々を救う慈悲の誓願があると言われ、後に頼朝が天下を治めた事から諸願に霊験ありと信仰されています。このため、芸能関係の参詣 も数多くあります。
佐奈田霊社HPより


境内入口では「子宝祈願に御利益のある」という大正二年(1913)五月生まれの狛犬さんがお出迎え。阿吽とも子取りでした。
色々な角度からの写真を 狛犬写真集 にてご紹介いたしますので、
ご覧いただければ幸いです。
こちらは、観音堂です。


割合広い境内には、与一塚や湘南そろばん塚がありました。

かなり大きくなります。
そして、そして、こんなのが。
佐奈田与一は力持ちだったとの事ですが、石に手を付いた時の手形とか。
形が不自然なのは、ご愛嬌?
やはりドク博士にお願いして、確認をして来なければいけないですね。
と長くなりましたが、石橋山古戦場関係のレポは終了です。ここ一ヶ所で1レポが出来てしまいますが、かなり省略をしました。
更に続きます。今暫らくのお付き合いを!
石橋山から降りて135号線を少し戻り、石橋公民館の脇を左折。東海道本線の高架下に路駐。
・子之神社(小田原市石橋16)
・祭 神 大国主命 (おおくにぬしのみこと)
・由緒伝来は、不明です。
年令不明の狛犬さんでした。
少し狭い感じの境内には、クスノキの古木が。
手短かにお参りを済ませて、更に135号線を戻りました。
西湘バイパスの石橋ⅠCを右に見送り200mほど先の路地を左に入りました。50mほど先を左折し東海道本線の高架を潜り、この日の最終の立ち寄り地へ。
・紀伊神社(小田原市早川9)
・祭 神 五十猛命 (いたけるのみこと)
惟喬親王 (これたかしんのう)
・由緒沿革
早川の氏神様で、往古は木宮大権現、のち紀伊宮大権現と称され、土地の人からは「木の宮さん」と呼ばれ、箱根物産木工業の人たちに昔から崇拝されてきた神社である。
神社縁起によれば、貞観年中(859~876)の創建で、祭神は五十猛命と惟喬親王(文徳天皇の第一皇子)とが奉祀されている。木地挽(轆轤師)の開発者といわれる惟喬親王は、天安二年(858)京の都を追われて伊豆(河津)に流罪となったが途中嵐にあい国府津海岸につき、早川の庄に至りこの地で没したといわれ、当時親王の付人が木地を挽いて、朝夕の奉仕の料に当てたといわれている。また、この地には「木地挽」と言う字名が現存するが、この字名はその名残りであると言う。
なお紀伊神社の社宝である「木地椀」は小田原市の重要文化財に、社叢は天然記念物にそれぞれ指定されており、中でも社殿前のクスノキは市内で最大の老木である。 社頭の案内板より
参道の鳥居の両側まで民家が押し迫って来ている、何んとも都会的な神社でした。鳥居を潜り参道を進むと、東海道本線の高架がありました。
拝殿への石段下には、金網を被った陶製の狛犬さんが。
狛犬さんは、大正十一年(1922)七月生まれで少し傷みが。触ると崩れてしまうのかも知れませんね。
阿像は、玉取り。吽像は、少し面白く招き猫風でした。
石段の手前右手には境内社(聖徳太子堂?)があり、昭和十年(1935)生まれとか言われている狛犬さんが。
火山石を積んだ山型台座の上の平らな台座にすわっていました。
かなり傷みがありまして、阿像の子獅子は少し判別が難しくなって来ていました。
こちらの社叢はタブノキ、ケヤキ、イヌビワ、スギ、サワラなど広葉常緑樹や落葉樹、針葉樹が混生し、市指定の天然記念物に指定されている。特にクスノキは、小田原市内で最大の古木との事です。
そしてこちらの境内にも鐘楼がありました。
そして、境内の片隅にはヤブミョウガが咲き誇っていた頃のレポでした。
これで昨年7月21日の中井~二宮~石垣山~石橋山~早川のお遍路さんレポは終了となります。
何んだ・かんだ1年余も経過してしまいました。
記憶が一部不鮮明となりつつありますが、何とか・・・。
次回のちょい遠目の狛犬さん22は、
奥多摩~厚木方面となります。
取材時期は、昨年の11月初めです。
周回遅れまでには少し間が・・・。
頑張りましょ!
取材した多くの狛犬写真があります
カル2の狛犬さん写真集は、こちらです。
・ちょい遠目の狛犬さん その20は、こちらです。
・ちょい遠目の狛犬さん その22は、こちらです。
ちょい遠目の狛犬さんシリーズもまだまだ続きます。
では、また。
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